日高賞の記録を遡る
岩手競馬次週の開催は、水沢競馬場で留守杯日高賞をメインに行われます。
日高賞は1969年(昭和44年)に岩手県競馬組合ではじめて実施された、特定の名称付き特別競走の中の1つであり、途中2001年にサラ系3歳の重賞競走「留守杯日高賞」となった際に回数がリセットされていますが、「日高賞」として通算すれば今年は51回目。「駒形賞典」、「岩鷲賞典」、「不来方賞典」と並んで最も伝統ある競走の一つです。
2020年4月22日に「留守氏と日高神社」としてその由来を紹介していますが、ここでは創設当初の記録をを紹介します。


現在「第1回」とされているのは、1969年(昭和44年)6月8日に水沢1600mで実施された「日高賞典」。クラスはAイ級で、血種混合です。ひと月前の「第1回駒形賞」で2着だったデイジーマサル(竹田実騎手/佐々木二八調教師)が、その時の勝ち馬ヤザキのレコードタイムを更新して優勝。当時は1600mのポケットはなく、「水沢競馬場、消えたレコード、消えなかったレコード」で紹介している通り3、4コーナーのカーブ途中からスタートしていたと思われます。


第2回となる1970年8月9日には、日本競馬史上に残る大記録が達成されます。ニユースターエイト(高橋優子騎手/高橋武調教師)が優勝。レース前の時点でレコードホルダーとなっており、1番人気での優勝でした。このレースは特別競走ではありますが、当時は重賞競走というカテゴリーはまだ設定される前。日高賞典は農林大臣賞典に次ぐ高額賞金競走の一つであり、今でいう「M1」レベルといって差し支えありません。2着はアラ系馬マルマンチカラでした。

第3回は1971年8月15日に行われ、サムネーション(遠藤陸夫騎手/小西善一郎調教師)が優勝。この年まではサラ、アラ混合で行われ、翌週の盛岡開催から血種別競走が始まります。

1972、1973年は実施されず、続く日高賞典は2年あけて、1974年7月29日、岩手県競馬組合としては初めてのアラ系(旧)4歳特別として水沢1420mで再スタートし、テツミヤマ(平澤芳三騎手/千葉忠一調教師)が優勝。この年は不来方賞がサラ系(旧)4歳の特別となりますが、賞金は同額でした。この競走は4回目の日高賞典ですが、 1983年(昭和58年)、岩手競馬の全重賞競走に回次を付与しようという動きがあった際に「1969年が第1回だから、1974年は第6回だろう」という勘違いがあったのか、「第6回日高賞典」とされてしまいます。同様の事例は不来方賞でも発生しています。詳しくは「駒形賞の記録を遡る」をご覧ください。

第7回は1975年12月1日に水沢1600mで行われ、タカラサンキ(佐藤敏彦騎手/阿部三郎調教師)が優勝。資料によれば、この年から重賞競走とされています。1975年はレース体系の整備が進み、日高賞の他、ビクトリーカップ、姫神賞(牝馬)とアラ系(旧)4歳の路線が作られました。さらにウイナーカップも翌年から始まります。
1974年以降の記録については地方競馬情報サイトでご覧ください。アラ系(旧)4歳による日高賞は1999年に終了。1年おいて2001年からはサラ系3歳牝馬の重賞競走「留守杯日高賞」として再スタートし現在に至ります。
●ネット新聞
e−新聞 競馬道
●コンビニプリント
e−新聞
をぜひご利用ください。
岩手競馬専門紙 ケイシュウNEWS facebook
←ぜひクリックで一票をお願いします
拍手もお願いします↓
日高賞は1969年(昭和44年)に岩手県競馬組合ではじめて実施された、特定の名称付き特別競走の中の1つであり、途中2001年にサラ系3歳の重賞競走「留守杯日高賞」となった際に回数がリセットされていますが、「日高賞」として通算すれば今年は51回目。「駒形賞典」、「岩鷲賞典」、「不来方賞典」と並んで最も伝統ある競走の一つです。
2020年4月22日に「留守氏と日高神社」としてその由来を紹介していますが、ここでは創設当初の記録をを紹介します。


現在「第1回」とされているのは、1969年(昭和44年)6月8日に水沢1600mで実施された「日高賞典」。クラスはAイ級で、血種混合です。ひと月前の「第1回駒形賞」で2着だったデイジーマサル(竹田実騎手/佐々木二八調教師)が、その時の勝ち馬ヤザキのレコードタイムを更新して優勝。当時は1600mのポケットはなく、「水沢競馬場、消えたレコード、消えなかったレコード」で紹介している通り3、4コーナーのカーブ途中からスタートしていたと思われます。


第2回となる1970年8月9日には、日本競馬史上に残る大記録が達成されます。ニユースターエイト(高橋優子騎手/高橋武調教師)が優勝。レース前の時点でレコードホルダーとなっており、1番人気での優勝でした。このレースは特別競走ではありますが、当時は重賞競走というカテゴリーはまだ設定される前。日高賞典は農林大臣賞典に次ぐ高額賞金競走の一つであり、今でいう「M1」レベルといって差し支えありません。2着はアラ系馬マルマンチカラでした。

第3回は1971年8月15日に行われ、サムネーション(遠藤陸夫騎手/小西善一郎調教師)が優勝。この年まではサラ、アラ混合で行われ、翌週の盛岡開催から血種別競走が始まります。

1972、1973年は実施されず、続く日高賞典は2年あけて、1974年7月29日、岩手県競馬組合としては初めてのアラ系(旧)4歳特別として水沢1420mで再スタートし、テツミヤマ(平澤芳三騎手/千葉忠一調教師)が優勝。この年は不来方賞がサラ系(旧)4歳の特別となりますが、賞金は同額でした。この競走は4回目の日高賞典ですが、 1983年(昭和58年)、岩手競馬の全重賞競走に回次を付与しようという動きがあった際に「1969年が第1回だから、1974年は第6回だろう」という勘違いがあったのか、「第6回日高賞典」とされてしまいます。同様の事例は不来方賞でも発生しています。詳しくは「駒形賞の記録を遡る」をご覧ください。

第7回は1975年12月1日に水沢1600mで行われ、タカラサンキ(佐藤敏彦騎手/阿部三郎調教師)が優勝。資料によれば、この年から重賞競走とされています。1975年はレース体系の整備が進み、日高賞の他、ビクトリーカップ、姫神賞(牝馬)とアラ系(旧)4歳の路線が作られました。さらにウイナーカップも翌年から始まります。
1974年以降の記録については地方競馬情報サイトでご覧ください。アラ系(旧)4歳による日高賞は1999年に終了。1年おいて2001年からはサラ系3歳牝馬の重賞競走「留守杯日高賞」として再スタートし現在に至ります。
●ネット新聞
e−新聞 競馬道
●コンビニプリント
e−新聞
をぜひご利用ください。
岩手競馬専門紙 ケイシュウNEWS facebook

拍手もお願いします↓